パッケージ

私は33歳。仕事、結婚、出産、子育て。そしてそう遠くはない介護など。

人生にはあらかじめ用意されたパッケージがあって、そこを「なぞる」か「なぞらない」かがいつも問われている気がしてならない。

そんなパッケージに対して、虚無感、虚脱感に襲われる瞬間がたびたび訪れる。

そういうときは大抵、1日を寝て過ごす。

そのようにして過ごしたあとは、罪悪感なのか、取り返すように動いてしまう。

こうしてこの文章を書いているのも、反動である。心がヒリヒリする。苦しい。

自分を編集する

10年振りに、学生時代の写真アルバムを開いた。自分で写真を管理するようになった(=思春期に入った)小学校高学年から大学時代の10年間の写真。点在するそれらをまとめるため、大きな赤いアルバムを買った。これから、少しずつ整理していく予定だ。慌てず、急がず。腫物にさわるような気持ちを前にして、私の心はどう動くのだろうか。自分でもまだわからない。

喫茶店と光

年明けから1週間ほど経った、よく晴れた昼下がり。羽根木(新代田)までウォーキング。はじめて行く場所。風がつよい。駅前の喫茶店に入る。こじんまりとした店内は清潔で、絵がたくさん飾ってあった。アイスコーヒーを注文すると、「寒くないの?」と店主が言った。「歩いてきたので暑くて」と私が答える。あとから入って来たひとりの女性客がスクランブルエッグを頼むと、バターとたまごが焼ける匂いが、優しく店内を包み込んだ。思わずメニューにもう一度目を落とす。「次はナポリタンかな」心の中でつぶやく。すぐそばに、おもしろそうな本屋も見つけた(Googleマップが)。ナポリタンと本屋。再訪するには十分すぎる口実だ。店のテレビ画面には倒壊した家屋が映し出されていた。誰の心にも、どうか温かな光が行き渡ってほしい。

言葉の行方

今年も銀座の鳩居堂で年賀状二枚とポチ袋を買う。年賀状はすっきりと繊細な線で描かれた富士山の絵柄を選んだ。

わざわざ銀座へ赴いて、老舗の文具店で購入する理由は、ほとんど自己満足のためだ。温暖な12月に、師走の空気を感じたかったのである。

「このご祝儀袋だと、少し祝い過ぎているかもしれません」。店員さんがお客さんにご祝儀袋の使い分けについて説明していた。

年賀状でも手紙でもDMでも会話でも、基本的には自分から放たれた言葉はもう二度と自分のもとには帰ってこない。

自分から放たれた言葉の数々をもう自分では捉えることができないのだ。なんとも心もとない気持ちである。

そして今現在も、私の言葉はこの0と1の大海原へ放出されている。

大学時代の恩師に向けて、今年はどんな言葉を綴ろうか。

12月18日

仕事の休憩時間に、近所にある馴染みの運動場でウォーキング。

今日はよく晴れている。

自由とは、仕事の休憩時間に見上げる青空のことかもしれない。

先週までの金色が幻だったかのように、イチョウの葉は枯れていた。季節の移ろいの早さそのものを体感できたことが、なんともうれしい。